2012年05月20日

フランスの「事実婚」ファーストレディー、バレリー・トリルベレールさんが19日、主要8か国(G8)首脳会議に合わせて米ワシントンD.C.で外交デビュー!



米ホワイトハウスで、ミシェル・オバマ(Michelle Obama)米大統領夫人(右)の案内で内部を見学するフランソワ・オランド(Francois Hollande)仏新大統領のパートナー、バレリー・トリルベレール(Valerie Trierweiler)さん(左)と野田仁実首相夫人(中央)



上品でエレガントなフランスの「事実婚」ファーストレディー、バレリー・トリルベレール(Valerie Trierweiler)さんが19日、主要8か国(G8)首脳会議に合わせて米ワシントンD.C.で外交デビューを果たした。

 フランソワ・オランド(Francois Hollande)仏新大統領のパートナー、トリルベレールさんは、ひざ丈の黒のラップドレスにハンドバッグと黒いヒールを合わせた服装。ミシェル・オバマ(Michelle Obama)米大統領夫人の案内でホワイトハウス(White House)のイーストルーム(East Room)を見学し、各国首脳夫人らと交流した。

 首脳夫人らはその後、昼食会に参加。地元特産の魚や野菜・果物とホワイトハウスの庭園で栽培された野菜を使った料理に舌鼓を打った。

 日本の野田仁実(Hitomi Noda)首相夫人もサミットデビューを果たしたが、アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相の夫のヨアヒム・ザウアー(Joachim Sauer)氏はホワイトハウス見学会も昼食会も欠席した

★事実婚(じじつこん)とは、
婚姻事実関係一般を意味する概念。「事実婚」の概念は多義的に用いられ、婚姻の成立方式としての「事実婚」は「無式婚」ともいい要式婚(形式婚)と対置される概念であるが、通常、日本では「事実婚」は法律婚(届出婚)に対する概念として用いられている。

したがって、事実婚は広義には「内縁」の同義語・類義語としても用いられるが、講学上において「事実婚」という概念を用いる場合には、特に当事者間の主体的・意図的な選択によって婚姻届を出さないまま共同生活を営む場合を指すとし、届出を出すことができないような社会的要因がある場合をも含む「内縁」とは異なる概念として区別されて用いられることが多い。この点を強調して「選択的事実婚」あるいは「自発的内縁」などと呼ばれることもある。

また、先述のように「事実婚」の概念は多義的であることから、法的概念として「事実婚」の語を用いることを避け、法律婚に対する事実婚については「自由結合(union libre)」という概念を用いる論者もいる。

概説

婚姻要件としての事実婚

事実婚とは社会慣習上において婚姻とみられる事実関係をいい、婚姻成立方式の分類上においては、事実婚は無式婚とも呼ばれ婚姻に一定の儀式を要求する要式婚(形式婚)に対する概念とされる(婚姻要件としての事実婚)。

社会慣習上において婚姻とみられる事実関係があれば法律上の婚姻として認める法制を事実婚主義というが、婚姻の成立には社会による承認としての公示(儀式等)が要求されることが一般的であり、純粋な事実婚主義は1926年のソビエト・ロシア法など極めて稀に存在するにすぎないとされる。

届出婚に対する事実婚

婚姻成立方式の分類における事実婚の概念は上のようなものであるが、日本の民法上では習俗的な婚姻儀式とは切り離された届出婚主義がとられている関係上、法律婚と婚姻事実との有機的結合が存在しないために、「事実婚」の概念は習俗的儀式婚をも含む届出婚(法律婚)に対する概念として用いられているとされる。

事実婚の概念が内縁と区別して用いられる場合、一般に内縁関係においては当事者間に婚姻意思がありながらも届出を出すことができないような社会的事情がある場合を含んでいたのに対し、内縁とは区別して事実婚という概念を用いる場合には特に当事者間の主体的な意思に基づく選択によって婚姻届を出さないまま共同生活を営む場合を指して用いられる(法律婚に対する事実婚)。

婚姻の届出を出さない理由としては、夫婦別姓の実践や家意識への抵抗などがあるといわれる。

事実婚の法的扱い

届出を出すことのできないやむを得ない事情がある内縁の場合とは異なり、当事者間の主体的・意図的な選択によって婚姻届を出さない事実婚の法的保護のあり方、特に準婚的保護を認めるべきか否かについては学説の間に争いがある。

典型的には以下のようなライフスタイル論と婚姻保護論の対立が挙げられる。
ライフスタイル論 日本国憲法第13条(幸福追求権)を根拠として、個人が婚姻という形態をとるか事実婚という形態をとるか選択するのは自由であり、国はこの自由を保障すべきであるとの考えから、経済上の不利益や道徳的な問題が残るとするならばこのような生活形態の選択は事実上不可能になるとし、通常の内縁と同様に生活保障を図っていく必要があるとみる学説。

このような見解に対しては、当事者双方が法的拘束力にとらわれない関係を選択しようとしている場合に、同居という事実をもって内縁保護の対象として法的拘束力が及ぶことになってしまい、当事者の本来の意図に反することになり問題であるとみる考え方もある。

また、この論理を徹底していくと婚姻の法的保護に届出を要件とすべきでない(事実婚主義をとるべき)ということに帰着するのではないかとの疑問を生ずるとする見解もある。 婚姻保護論 婚姻の法制度上の効果を望んでいない当事者に婚姻類似の効果を認めるべきでないとする学説。

婚姻による法的効果を望むか否かは当事者間の自由な意思の下に選択すればよく、当事者がその意思で婚姻を望まず選択しなかった場合に婚姻制度上の定型的な保護を享受しえないのは当然であるとみる学説。 選択的夫婦別姓導入論 研究者や弁護士、医師等、個人の氏名が重要な職業に就く当事者同士はやむをえず事実婚をしている者が多い。これに関して、その子供の人権を守る意味で、選択的夫婦別姓の導入が望まれている。

☆事実婚のメリットとデメリット

◆事実婚のメリットとは?

自立した関係だからこそよりよい協力態勢が築ける−

離婚カウンセラーの岡野あつこです! カップルが入籍せずに事実上の結婚生活を送ることを「事実婚」といいます。因みに「同棲」とは、結婚していない恋愛関係にある男女が1つ屋根の下で生活を共にすること。

「事実婚」と「同棲」の違いは、本人同士および周囲の者が「夫婦」だと認め共同生活を営んでいるか、いないか、ともいえます。

■事実婚のメリット
どちらか(主に女性)が改姓しなくてよい

戸籍の姓と通称を使い分ける煩わしさがない
(※法律婚→改姓→通称併用と比べて)

氏名変更手続きの煩わしさがない

相手の家(親)に「婿」や「嫁」という見方をされない
(※見られたくない場合)
(※ex.→「息子の妻」、「娘の夫」という見方をされる)

親戚関係にほどよい距離を保てる

対等なパートナーシップを築きやすい

束縛されず精神的に自由でいられる

別れても戸籍に×がつかない

夫婦別氏のために事実婚を選ぶケースが多い
夫婦別氏のための民法改正案は国会に提出されては見送られており、法制化されていません。法律婚によって改姓をするのは97%までが女性という日本。結婚しても仕事を続けさらにキャリアを積んでいきたいと考える女性は、法律婚をして改姓した上でこれまでの姓を通称使用するか、事実婚によって改姓しない道を選ぶか、このどちらかを選択するのが一般的です。

前者を選択した場合、2つの姓をその場その場で使い分けるのは非常に面倒で不便です。また改姓に伴い、免許証や銀行口座からクレジットカード、あらゆる登録・所属先における氏名変更手続きは時間もお金もかかり大変な労力が要ります。

それから、万が一別れることになった際、法律婚と同じように、ふたりで築いた財産がある場合には財産分与の請求が、相手の不貞行為などが原因の場合には慰謝料請求ができるのです。これらのことを考えると、事実婚のメリットは大きいと捉え選択するカップルがいてもおかしくないのです。

■事実婚のデメリット
親や周囲の理解を得るのが大変

携帯電話の家族割引が利用できない場合がある

社会的信用を得にくい

税金の配偶者控除を受けられない

子どもが非嫡出子になる

家族だが親子の姓が統一されない

事実婚であることの説明が煩わしい

夫婦間で相続権がない

遺言により相続できても相続税がかかる

生命保険の受取人に指定するのが困難

子どもを持つとなると事実婚を貫くのは難しい
デメリットもこれだけある事実婚。特に子どもが生まれると、子どもは非嫡出子となり認知の手続きが必要となります。これを避けるため、子どもができると法律婚に切り替えるカップルが多いのです。相続他金銭面では不利な案件が多いことはいえます。事実婚は全面的に法的保護があるわけではないので、自由な選択をした分あとは自己責任という部分はあるのです。

とはいえ、結婚のカタチ、夫婦のカタチは、今後ますます多様化し、事実婚カップルも増えていくことが予想されます。事実婚にはメリットもデメリットもありますが、法律婚よりも事実婚のほうが、自分たちらしく幸せに生きられるというなら、それもアリなのではないでしょうか。

posted by kisenews69 at 20:30| Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

西武エース・涌井 プライベートでは女性問題で“火消し”失敗中


ストッパー起用の西武エース・涌井 プライベートでは女性問題で“火消し”失敗中

 セ・パ交流戦がスタートし盛り上がるプロ野球だが、写真誌「フライデー」(講談社)6月1日号が埼玉西武ライオンズのエース・涌井秀章のシャレにならないスキャンダルを報じた。

 同誌によると、涌井は昨年12月に福岡・中洲の高級クラブで接客したホステス・Aさんと北海道で逢瀬。ところが、その北海道でAさんが積雪に足を滑らせ転倒、救急車を呼ぶ騒ぎになると、ケガをしたAさんを残して捕手・炭谷銀仁朗とともに夜の街に繰り出してしまったのだという。

 その後、Aさんの行動を知った交際相手の男性Bさんが激怒。「(Aさんは)転んだと言っていますが、暴行されたかもしれない」などとして、涌井本人や西武球団に再三連絡をしたものの相手にされず。球団は同誌の取材に対してもノーコメントだった。

「Aさんは涌井との“ベッド写真”や、負傷後の写真を自ら撮影し“証拠”を残しているのがかなり不自然。涌井にはそれなりのバックがいるが、今回の件は穏便に処理することができなかったようだ。今回の記事が出たことで、それ相応の条件で和解することになるのでは」(球界関係者)

 母校・横浜高校の先輩で、大リーグ・レッドソックスの松坂大輔渡米後、西武のエースを継承した涌井。今年は5年連続となる開幕投手を務めたものの、開幕から3連敗を喫し2軍落ち。今月初めに1軍復帰すると、プロ入り初の“火消し役”のストッパーで起用され、期待に応える活躍をみせているが、プライベートの“火消し”には失敗。根っからの女好きがプレーに悪影響を及ぼしているようだ。

「番記者らによく合コンをセッティングさせていたが、平気でお持ち帰りをしたりするわりに、野球界の“暗黙の了解”で支払いは年齢が自分より上の記者たち。一時期はAKB48の板野友美を狙っていたようだが、『やれなかった』とこぼしていた。昨年は春先にキャスターの杉崎美香との交際が発覚したが、登板のない日は酒好きの杉崎に付き合って昼から酒浸り。結局、3カ月で破局したが、春先の不調が響き、前年まで5年連続だった2ケタ勝利がストップ。今シーズンは盟友でライバルのダルビッシュ有の大リーグ移籍でモチベーションが下がったのもあったが、プライベートの女性問題が不調につながったようだ」(スポーツ紙デスク)

 Aさんによると、涌井との夜については「キスから10分前後で“撃チン”。口ほどにもない」そうだが、果たして今回の女性問題をどうやって“火消し”するのかが注目される。
◆涌井の女性問題で球団が「再発防止」…西武

 西武・飯田則昭球団専務(50)が19日、18日発売の写真週刊誌「FRIDAY」に涌井秀章投手(25)の女性問題が掲載された件についてナゴヤDで会見し、チームとして再発防止に努める方針を示した。同誌では福岡・中洲の高級クラブでホステスをしている24歳の女性が、涌井20+ 件との交際の一部始終を赤裸々に告白している。

 18日に涌井から事情を聞いた飯田専務は「プロ野球選手はファンの皆様に注目を受け、模範となるような振る舞いをしなくてはならない立場。今回の件は重く受け止めている。今後こうしたことが起こらないように取り組んでいかなくてはならない」と話した。

 涌井は「今回の報道で、ファンの皆様や球団並びにチームメートにご心配をかけて、申し訳なく思っています」とのコメントを発表した。

◆開幕3連敗で二軍降格。エース・涌井秀章に何が起きたのか?

 新垣渚(ソフトバンク)や山本昌(中日)、安藤優也(阪神)らのベテラン勢が復活を遂げ、野村祐輔(広島)、藤岡貴裕(ロッテ)といったルーキーたちも評判通りのピッチングを披露。ベテラン、若手がしのぎを削り合う2012年シーズンにあって、埼玉西武ライオンズのエース・涌井秀章がもがき苦しんでいる。

 涌井は5年連続開幕投手となった3月30日の日本ハム戦で、5回途中6失点でKOされると、続く4月7日のソフトバンク戦でも7回3失点で負け投手に。そして4月15日のオリックス戦でも3回4失点で降板すると、渡辺久信監督から「エースとして勝てるものを持っていない。もう一回作り直させる。このまま終わるか、1ランク上に行くか。すべてひっくるめて自分自身を見つめ直させる」と、無期限の二軍調整を命じられた。

 これまで最多勝2回(07年、09年)、沢村賞1回(09年)を獲得するなど、球界を代表する右腕に何が起きたのか?

 ライオンズのOBであり野球評論家の大塚光二氏は、「あくまでも個人的な意見」と前置きした上で、次のように語った。

「開幕から3試合を見ましたが、気になったのはセットポジションに入ってから急に調子が悪くなるということです。フォームも体が開き気味になり、力がうまく伝わっていない気がします。簡単に言えば、バランスが悪い。走り込み不足ではないかと指摘する声もありますが、涌井は誰よりも走り込む選手だし、それは考えにくい。もしかしたら、知らず知らずのうちに肘をかばっているのかもしれないですね」

 また、ライオンズの球団関係者は、肘痛による投げ込み不足を指摘する。

「今年のキャンプは例年以上に冷え込み、肘に不安のある涌井は十分な投げ込みができなかった。それがバランスを崩している大きな原因だと思います」

 昨年痛めた肘の影響は多少なりともあるかもしれない。だが、そもそも肘を痛めた原因は何だったのか? 別の球団関係者が「統一球の影響もあるかもしれない」と興味深いことを語ってくれた。

「涌井も統一球に関して『滑る』と言っていたように、当初から苦労していました。その対応策として強く握って投げるようにしたのですが、それがよくなかった。もともと涌井はボールを軽く握り、腕のしなりを使って投げるタイプでした。しかし、強く握ることで腕のしなりが失われ、肘に負担がかかるようになった。昨年、肘痛で戦線離脱しましたが、それが原因だったみたいです」

 他球団のスコアラーも統一球導入後の涌井の変化について、次のように説明する。

「肘の影響もあるんだろうけど、腕が振れなくなった印象があります。以前の涌井は、しっかりと腕を振って投げるから打者の手元でもうひと伸びがあった。しかし昨年から、ボールが垂れるというのか、伸びがない。それにコーナーギリギリを突くという自慢のコントロールも失われていたような気がします」

 確かに、今シーズンの開幕戦でも5回途中までに5四球と制球に苦しんだように、以前の涌井とは別人の投球内容だった。

 ここまで(4月16日現在)西武はエースの不調もあり、10試合を終えて2勝8敗と苦しいスタートを強いられた。「まだこの時期でよかった」という声もあるが、大塚氏は期待を込めて言う。

「エースが一軍にいないというのは非常事態です。じっくり調整して、万全の状態で戻ってきてほしいという意見もありますが、私はすぐに帰ってきてほしい。肘が原因であればじっくり治すべきだとは思いますが、ただの不調であれば涌井には焦ってほしいですね。正直、シーズンは先が長いとはいえ、このまま引き離されると、優勝はおろかAクラスさえも危うくなります。確かに結果は出ていませんが、まったく通用していないというわけではない。きっかけさえあれば、きっと変わりますよ」

 まだ開幕したばかりとはいえ、いつまでもエース抜きの戦いを続けるわけにはいかない。早くも4月にして修羅場を迎えたライオンズ。この危機を脱するのは、涌井の完全復活しかない。

★涌井 秀章

埼玉西武ライオンズ #18
2006年11月4日
基本情報



国籍

日本



出身地

千葉県松戸市



生年月日

1986年6月21日(25歳)



身長
体重

185 cm
85 kg



選手情報



投球・打席

右投右打



ポジション

投手



プロ入り

2004年 ドラフト1巡目



初出場

2005年3月29日



年俸

2億1,000万円+出来高(2012年)



経歴(括弧内は在籍年)




横浜高等学校
西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ (2005 - )



国際大会



代表チーム

日本



五輪

2008年



WBC

2009年

涌井 秀章(わくい ひであき、1986年6月21日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。



経歴

プロ入り前

小学生時代はソフトボールをしており(寒風台ソフトボールチームに所属)、野球は中学生になってからシニアリーグ(松戸シニア)で始めた。その後横浜高に進学。

入学時から松坂大輔二世と呼ばれていた。高校2年春に第75回選抜高等学校野球大会に1学年上のエース成瀬善久(現・千葉ロッテマリーンズ)らと共に出場。準決勝までは成瀬のリリーフとして登板。決勝戦では先発したが、広陵高の打線につかまり3-15と大敗した。第85回全国高等学校野球選手権大会神奈川県予選では決勝進出を果たしたが、同学年の田澤純一(現・ボストン・レッドソックス)が控えであった横浜商大高校に敗れ春夏連続出場を逃した。

3年夏には第86回全国高等学校野球選手権大会に同期の石川雄洋(現・横浜DeNAベイスターズ)や2年後輩の福田永将(現・中日ドラゴンズ)らと出場。1回戦の報徳学園戦では片山博視(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)から本塁打を放つなど打撃でも勝利に貢献し、2回戦の京都外大西戦は、延長戦にもつれ込んだが幾度と訪れた大ピンチの場面も我慢のピッチングで乗り切り完封勝利。肉体的にも精神的にもスタミナのある面を披露。

3回戦の明徳義塾戦は中田亮二(現・中日ドラゴンズ)に本塁打を浴びるなど序盤に失点するも後半粘りのピッチングを披露し逆転勝利、この試合では現チームメイトの松下建太に投げ勝つ。準々決勝の駒大苫小牧戦は林裕也(現・東芝硬式野球部)にサイクルヒットを浴びるなどして完敗した。

国体秋季大会では、初戦の駒大苫小牧戦で14三振を奪って完投勝利を収め、決勝ではダルビッシュ有(現・テキサス・レンジャーズ)の東北高校を下し優勝している。

高校時代の涌井について、横浜高の野球部長・小倉清一郎は「松坂よりも我慢し、辛い練習に耐え、乗り越えてきた」と称賛。その後、甲子園で147km/hを計測した涌井を見た松坂大輔は、「相当な努力をしたと思う」と評価した。最速148km/hのストレートとスライダーを投げ、2004年ドラフトで西武ライオンズから、単独で1巡目指名を受けた。西武に対する印象を聞かれ「松坂さんと同じチームで出来るのでとても嬉しい、西武に行きたかった」と答えている。また小倉部長は「最高のチームが指名してくれた」と語った。

プロ入り後
2005年 背番号16を与えられて入団時より大いに期待され、プロ入り1年目から開幕一軍入りを果たす。6月18日、交流戦最終戦のヤクルト戦でプロ初勝利。

同年、ファームの優秀選手を受賞。 2006年 先発ローテーションに定着し、高卒ルーキーの炭谷銀仁朗と共に10代でバッテリーを組み「10代バッテリー」としてマスコミで話題となった。

3月26日のオリックス戦にて炭谷とのコンビで勝利投手となり、また4月23日の東北楽天戦では同じく炭谷とのバッテリーで自身初の完投および完封勝利を記録した。10代バッテリーでの勝利は1989年、横浜大洋ホエールズの石井忠徳-谷繁元信以来17年ぶりだった。

6月はリーグ1位の防御率、3勝1敗で初の月間MVPを受賞。監督推薦でオールスター初出場。 8月19日の対福岡ソフトバンク戦で、「西武ライオンズ発足以来パ・リーグ公式戦通算2000勝目」の勝利投手となった。これは当初西武球団広報や通信社の記者にも気付かれておらず、インターネットのBBSに投稿されたファンの情報によって初めて明らかになったことが文化放送ライオンズナイターの中川充四郎公式サイトで公表された。 オフには怪我で辞退した福留孝介に替わり日米野球に選出。1イニングの登板ながら好投を見せ、ジャーメイン・ダイからは「いずれメジャーで通用する素晴らしい投手だった」とコメントされた。

2007年 デビュー時の速球中心の投球から打たせて取る投球にモデルチェンジしたことで勝ち星を積み重ねた。 4月3日の対福岡ソフトバンク戦の5回表には、プロ野球史上12人目となる1イニング4奪三振を達成。 最終的に17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、両リーグ最多の213投球回と199被安打を記録。完投数11はリーグ2位だった。

12月の北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグの日本代表メンバーに、ダルビッシュ有と並び最年少で選出され、初戦の先発を任され、フィリピンを相手に6回1安打無失点の好投を見せた。ちなみに先発を告げるため星野仙一の部屋に呼ばれた際、涌井本人はてっきり代表落選の知らせだと思いこみ「行きたくありません」と駄々をこねたという。[2] 契約更改の際、球団側から背番号18への変更を打診されるも固辞。

「投手のタイトルを全て獲るくらいでないと変えられない」という背番号18の重さと「西武になってから16番を付けたのは3人(松沼雅之・潮崎哲也・涌井)だけ」と西武投手陣の一角を担った背番号16の先輩に対する敬意を理由に挙げている。[3] 2008年 3月20日のオリックス戦にて初の開幕投手を務めた。シーズン序盤は防御率1点台と比較的好調でチームは勝利していたが自身は勝利に恵まれず、開幕から4試合目の4月10日のロッテ戦まで勝ちがつかなかった。この試合で決勝打を打った細川亨は「今日は涌井のためだけに打った」とそれまで中々勝ちがつかなかった涌井を労った。

前年に最多勝を獲得したが、技巧的なピッチングが「若々しくない」と評されることがあり球速を上げるため春から調整法を変えていた。夏場までに球速アップを達成するのがめどであったが、効果が表れたのはポストシーズン以降であり、中盤以降はやや低調な成績が続いた。 8月には北京オリンピック野球日本代表に選出され、台湾戦と中国戦の先発を任されて2勝をあげた。韓国戦の中継ぎとしても登板し、この大会の日本代表投手の中で最多イニング登板となった。なお韓国戦で涌井がリリーフ登板した場面は、当初の順番ではダルビッシュが中継ぎとして登板する予定で、涌井は一度肩をつくっていたが休んでいた。

急遽予定が変更されたがブルペンの電話が故障していてベンチの指令が伝わらず、涌井は準備不足の状態でマウンドにあがることになったと後に大野豊が明かした[4]。 帰国後は国際球とNPB球との違いに苦しむなど与四死球率は前年の2.45から3.07と悪化。3年連続となる2ケタ勝利を達成したものの11敗と負け越してしまうが、チームはリーグ優勝を飾った。

クライマックスシリーズでは1、5戦に先発、計15回を投げ1失点、2勝を挙げた。第5戦は7回二死まで走者を許さず、最終的には3安打無四球完封勝利で胴上げ投手となり、シリーズのMVPに輝く。当初はシーズン後半不調であった涌井を1戦目に起用することには賛否両論あったが、「大舞台に強い」という理由で監督の渡辺久信が登板を決断し、見事期待に応える形となった。

読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦、第5戦に先発、第7戦に中継ぎで登板。それぞれ中4日、中4日、中2日での登板で、合計16 1/3回を投げ6失点。アジアシリーズでは決勝の統一ライオンズ戦に先発し6回2/3を無失点に抑え優勝に貢献した。 この年もオフに球団から背番号18を打診され、悩みぬいた末に背番号を変更を決意。それまでの背番号16は石井一久に受け継がれた。これは2009年を最後に石井が引退するという噂があり「最後にカズさんに16をつけて欲しかった」と週刊現代のインタビューで語っている。

2009年 2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、主に中継ぎ、ワンポイントとして好投。2連覇に貢献する。 4月3日の開幕戦では2年連続2回目の開幕投手をつとめる。開幕投手はアメリカ遠征中に渡辺久信から直接電話を受け打診された。このため3月26日夜にWBCから帰国し、翌27日のデーゲームのオープン戦に先発して調整するというハードスケジュールであった。 開幕から安定した投球を続け、7月には4試合4勝0敗防御率1.64の成績で月間MVPに選出された。前年よりの球速アップへの取り組みや筋力トレーニングを積極的に取り入れたこともあり球威が上がって奪三振数が増え、これまでの技巧派のイメージから一転して伸びのあるストレート主体の投球に切り替わった。

しかし抑えの切り札であったアレックス・グラマンが5月に左肩関節炎で離脱し、チームの中継ぎ陣が不安定になり、先発した試合では完投を余儀なくされるようになる。さらに8月には主砲の中村剛也が怪我で一時的に離脱してチームの得点力が低下し、8月から9月にかけては5試合連続9回まで投げたが2回しか勝ちがつかずうち2度は同点だったため完投も記録されなかった。 球数が非常に多くなり、160球以上投げた試合が3試合、1試合あたりの球数が132球、1イニングあたり16.8球を投げた。年間で3555球を投げ、07年の3385球に続いて両リーグトップだった。最終的に16勝6敗で2年ぶりの最多勝を獲得し、4年連続の二桁勝利を達成した。

また投球回は十二球団でただ一人200イニングを超え、完投11は両リーグ単独最多、完封4は両リーグ最多タイであった。防御率2.30、奪三振数199はリーグ2位といずれも自己最高であり、両リーグで唯一人、全ての選考基準を満たしたことで、2009年度の沢村賞を受賞した。オフに出身地である松戸市の市民栄誉賞を受賞し、通算勝利数に応じて市に寄付をすることが発表された。 2010年 3年連続3回目の開幕投手をつとめる。この試合は千葉ロッテマリーンズの横浜高校時代の先輩、成瀬善久との投げ合いになり競り勝った。その後は不安定な投球が続くが、原因としては長年の勤続疲労を取るために前年秋季キャンプからオフの間徹底したノースローで肩を休め、キャンプでも投げ込みや走り込み量を減らしウェイト中心の調整をしたためによるスタミナ不足と、大迫コーチは分析している。

4月9日の千葉ロッテ戦では前日の練習中に味方打者の打球が後頭部に直撃し病院で検査を受けるというアクシデントに見舞われた。 5月以降は調子を持ち直し、交流戦では4勝を上げる。この年福岡ソフトバンクの和田毅に継ぐ交流戦通算17勝を挙げた。5月15日の横浜ベイスターズ戦では4打数3安打4打点の活躍を見せ、プロ入り後及びパ・リーグの投手として交流戦史上初の猛打賞を獲得した。

またプロ野球チップスでは、投手としては異例となる「打者・涌井」がカード化された。その後は石井一久と岸孝之が相次いで負傷離脱したため、中継ぎ温存のため毎試合完投を前提に投げることを余儀なくされた。しかしこの夏の記録的な猛暑で登板中に脱水症状を起こし足を吊って降板するなど体力を消耗し、途中まで好投するも試合後半に突発的に打ち込まれて大量失点するケースが目立ったものの最終的に14勝を上げた。

再調整して臨んだクライマックスシリーズ第一ステージ初戦千葉ロッテ戦では開幕戦同様成瀬善久と投げ合い、8回1失点の好投を見せ2008年同様ポストシーズンに強い所を示した。 シーズンオフには、契約更改が難航した。涌井と球団双方が、2011年1月12日日本プロ野球組織に年俸調停を申請した[7]。球団提示額は現状維持の2億2,000万円、涌井の希望額は5,000万円増の2億7,000万円であったが、2011年1月28日に出された調停結果は2億5,300万円であった[8]。調停書では、球団側の現状維持主張が「合理性がない」と判断され、エースとしての活躍、とりわけ前半の好成績が評価された[9]。 2011年 4年連続4度目の開幕投手を務める。日本ハムのダルビッシュを相手に勝ち星を挙げる上々の滑り出しで6月半ばまでは防御率1点台で一時リーグトップに立つも、開幕前から肘痛に悩まされ、5月には登録を抹消される。

2年目でローテーション入りしてから、日程の都合以外で抹消されたのは初めてのことであった。復帰後も解消しない肘痛と6月の巨人戦で打球を当てた事による足痛で大幅にフォームを崩し、7月以降成績を落とし5年続いていた二桁勝利が途絶えた(9勝12敗)。 シーズン終了後、5月の抹消時に右肘に遊離軟骨が見つかっていた事が発表され、一時は手術も検討したが保存療法で回復を目指す事を選択した。

2012年 5年連続5度目の開幕投手を務めたが、開幕から3連敗を喫して4月16日に登録抹消となった。その後、抑えを務めていたエンリケ・ゴンザレスの不調により、プロ入り初の抑えで起用され5月4日に復帰、同日のロッテ戦(西武ドーム)で1点リードされた9回に登板して打者3人を3者凡退に抑えた。
プレースタイル

球持ちが良くバランスのとれたフォームからキレのよい速球と多彩な変化球を投げる本格派右腕。豊富な走り込み量により足腰が強靭で、9回でも140km/hを越える球速を計時するスタミナを備える。江夏豊は「フォームのバランスの良さでは涌井は今の日本球界において3指に入るだろう。他の投手と比べても、打者寄りでボールを離しているように見える。(中略)下半身の粘りがなければあれだけ長くボールを持った投球というのは難しいものだ」と述べている。

スリークォーターから平均球速142km/h、最速151km/h[16]のストレートは、普段は140km/h程度に抑えているが、ここぞの場面では140km/h後半を記録するように全力投球する。このような投球スタイルについて潮崎哲也投手コーチは「先発して初回から普通に投げている時は(中略)力の入れ具合という部分で余裕を持って投げている。そのかわりここ一番という所では全力で勝負できます」と証言している。

また、リリースポイントが普通の投手より前にあることで、スピード表示より体感速度が速いと言われ、「涌井投手のフォームの特徴は、ロスがなく全ての力を一点に、つまりボールに伝えて投げていること。そのため実際のボールのスピードよりバッターには速く見える」といも言われる。

変化球は横と縦のスライダー、カットボール、120km/h前後のカーブ、100km/h前後のスローカーブ、フォーク、チェンジアップ、シュートを投げ、「どの球種でもストライクが取れ、勝負できるため、バッターからは絞り辛い」と言われる反面「空振りを取れる決め球がないため、一試合の球数が増える傾向にある」とも指摘されており、実際に奪三振率は2011年までの通算で6.84、キャリアハイ(2009年)でも8.46と高くはない。2010年は前年に被打率.115を記録していた[20]フォークが曲がらなくなったことに苦しみ、渡辺久信は「2007年まで決め球だったフォークの復活が今後の課題」と述べた。

潮崎哲也は特徴のひとつとして試合中の修正力、アレンジ力に優れていることを挙げている[17]。江夏豊も「その日の調子を早い段階で読み取り、投球の軸に調子の良い球を据える。それを自分の判断で出来るというか勝負のポイントで使っている涌井の姿をよく見る、感心するほどだ」と評している。

フィールディング能力が高く、特にバント処理や投手前のゴロを捌いて併殺を取るプレーが得意である。

人物

努力家で練習量が非常に多い。毎年、独自練習のメニューを作成している大迫幸一は「フィジカル面で彼(涌井)の陰の努力は半端ではない」と舌を巻く。特に走り込み量の多さは球界有数で、下半身が大きくなり、オフに買ったジーンズの膝が座ったと同時に破けたこともある。潮崎哲也も「野球に対する取り組みは真剣で真面目、自分の置かれている立場を理解して、周りにも良い影響を与えている」と高く評価している。

ポーカーフェイスでピンチでも勝利の後も表情を崩さず、常にマイペースで投球する。落合博満は涌井の印象を「ポーカーフェイスでマウンドに立ち、1人で投げきった。ストライクをボールと判定されても顔には出さず、自分の中にしまい込んでいた。最近は喜怒哀楽を表に出す選手が多い。その中で、まだこういう選手がいたのかと、ちょっと嬉しかった」と書いている。プレー中だけでなく写真撮影で笑顔になることも苦手で、雑誌の取材は苦労するという。とても涙もろい一面があり、石井貴の引退試合、赤田将吾のトレード発表の際には、人目もはばからず号泣する姿が報道された。

一方で、日常生活では非常に子供っぽく、茶目っ気のある行動で知られる。また、漫画やゲームが大好きで、帆足和幸と「ONE PIECE会」を結成[27]したり、チームで流行している「ボンバーマン」は一番の腕前で、銀仁朗は「涌井さんが一番強いんで、みんなチームを組みたがるんです」と語っている。

銀仁朗とゲームで親交を深めた結果、最優秀バッテリー賞を受賞した[28]。苦手な取材も、終わると笑顔になるという[25]。試合中と普段のギャップの激しさから、文化放送ライオンズナイターでは「ピッチングは大人、言動は子供」と評され、潮崎からも「まだまだ、おこちゃまなところがある」と言われる。チームメートは涌井を「不思議ちゃん」と評し、雑誌では「ツンデレ系」とも評された。

「エース」と呼ばれることに違和感を持っており「(エースと呼ばれることに)拘りはありません。二番手・三番手とか順番を付けるのもいらないと思います。マウンドにあがった投手全員で勝ちにいくのが、強いチームだと思う」という持論を持っている。

幼少時は偏食だったが現在は野菜中心の食生活を心がける。西武ドームで発売された自身のプロデュース弁当も和食メインだが、生魚は苦手で蟹を食べてアレルギーになったことがある。大のお菓子好きで、キャンプ中に鳩サブレばかり食べていたことを帆足から暴露された。 西武ドームの厳しい暑さに悩まされ、よく足を攣る事もあり、体質改善のために医師から処方された アミノ酸入りのドリンクを愛飲している。



タイトル
最多勝利:2回(2007年、2009年)

表彰
月間MVP:2回(2006年6月、2009年7月)
ゴールデングラブ賞:2回(2009年、2010年)
最優秀バッテリー賞:1回(2009年) 相方の銀仁朗の21歳で開幕を迎えたシーズンの受賞は1999年22歳で開幕を迎えたシーズンに受賞の城島健司を凌ぎ捕手として最年少記録。自身は22歳で開幕を迎えバッテリー平均年齢21.5歳も1995年19歳で開幕を迎えた平井正史及び26歳で開幕を迎えた中嶋聡の平均年齢22.5歳を凌ぎ最年少記録。

沢村賞(2009年)
クライマックスシリーズMVP(2008年)

記録
投手記録 初登板・初先発:2005年3月29日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、2回1/3を7失点で敗戦投手
初奪三振:同上、1回裏に小田智之から
初勝利・初先発勝利:2005年6月18日、対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、6回1失点
初完投勝利・初完封勝利:2006年4月23日、対東北楽天ゴールデンイーグルス5回戦(フルキャストスタジアム宮城)
初セーブ:2012年5月13日、対北海道日本ハムファイターズ8回戦(函館市千代台公園野球場 )、9回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点
打撃記録 初安打:2006年5月23日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤドーム)、4回表に川上憲伸から投手内野安打
初打点:2009年5月28日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、2回表に安藤優也から左越適時二塁打
節目の記録 1000投球回数:2010年8月28日、対東北楽天ゴールデンイーグルス17回戦(西武ドーム)、1回表1死目に聖澤諒を三塁ゴロで達成 ※史上322人目(ダルビッシュ有と同日達成)
その他の記録 1イニング4奪三振:2007年4月3日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(グッドウィルドーム)、6回表に山崎勝己・本間満(振り逃げ)・城所龍磨・多村仁から ※史上12人目(13度目)
全員奪三振:2009年4月24日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(西武ドーム) ※史上4人目(毎回奪三振と合わせての達成は史上初)
オールスターゲーム出場:4回(2006年、2007年、2009年、2010年)

背番号
16 (2005年 - 2008年)
18 (2009年 - )

登場曲
Mr.Children「Tomorrow never knows」
posted by kisenews69 at 10:10| Comment(0) | 災害・事故 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月14日

性別を選ぶ自己決定権と「死ぬ権利」を認める法案をアルゼンチンの議会が可決!


南米で初めて同性婚を合法化したアルゼンチンの議会がこのほど、公的機関に届け出る性別の選択と、親族による終末期の意志決定を法的権利として認める法案を可決し、話題を呼んでいる。

■性別を選ぶ自己決定権

 アルゼンチン議会が可決した法案の1つは、トランスベスタイト(異性装者)やトランスジェンダーの人が、身分証明書などの法的書類に記入報告する性別を選択できるようにするもの。与党・正義党(ペロン党、PJ)のソニア・エスクデロ(Sonia Escudero)上院議員は、2年前の同性婚合法化に続き「自己決定権と個人の権利が再確認された」と評価した。

 世界銀行(World Bank)の統計によれば、カトリック教徒が圧倒的多数を占めるアルゼンチンのトランベスタイト・コミュニティーは全国で約2万2000人と小規模。寿命も同国平均の75.5歳に比べて、35歳と非常に短い。トランベスタイトたちの多くは低学年で学校を去り正規の教育を受けておらず、9割以上が売春産業に入る。
 
 北部の港町バイア・ブランカ(Bahia Blanca)で学生たちを教える心理学者マリア・エバ・ロッシさん(45)は、今回の合法化を歓迎するトランベスタイトの1人だ。「これからはもう病気だとか、犯罪者扱いされなくて済む。ようやく私たちの権利が認められるようになったのです」

■終末期の患者と家族の権利拡大

 一方、通称「尊厳死法」は人生の終末期にある患者とその家族の決定権を拡大し、延命治療や生命維持措置の拒否を認めた。ただし安楽死処置については明確に禁じている。

「死ぬ権利」を認めるこの法律を支持するセルバ・ヘブロンさんの娘カミラちゃんは、3年前に生まれて以来ずっと昏睡状態にある。脳活動や生命兆候は一切ない。「私たちが望んでいるのは、カミラ本人と家族の安らぎです。今のままでは常に死に直面した状態。これほど辛いことはない」と語る。

■時代反映するペロン党、都市への人口集中も後押し

 しかし、国民4000万人の91%がカトリック信者を自認する歴史的に保守的なアルゼンチンが、こうしたリベラルな施策をどうやって推進して来れたのだろうか。

 現在上下両院で過半数を占める与党・正義党(ペロン党)とその政治運動は、「社会的正義」「経済的自立」「政治的主権」の3つの理念を柱としている。1940年代に社会福祉を導入したのも、逆に90年代に民営化を進めたのも、また現在、国有化を推進しつつ個人の権利を拡大しているのも、全て同じこの正義党だ。

 これについて文学評論家のベアトリス・サルロ(Beatriz Sarlo)氏は、「ペロン主義は政治イデオロギーとして生まれたのではなく、社会運動から生まれた。(だから)その時々の時代を反映する」と説明する。

 一方で、カトリック教会は2003〜07年の故ネストル・キルチネル(Nestor Kirchner)前大統領と、その妻で2011年に再選されたクリスティナ・フェルナンデス・デ・キルチネル(Cristina Kirchner)大統領の両政権下で弱体化が進んだ。

 サルロ氏はさらに、人口が都市部に集中している点を指摘する。「フランスやその他の国では世論の根は地方コミュニティーにあるが、アルゼンチンでは都会性が他では不可能な法を可能にしている」

 都市部ではさまざまな人権団体が声をあげやすく、政府の支持も得やすい。2001年の調査によればアルゼンチンの人口は9割が都市部に集中しているが、同性婚の届け出の多くもブエノスアイレスや首都圏に集中しているという。
posted by kisenews69 at 22:22| Comment(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

1923年に製作されたドイツの高級カメラ「ライカ(Leica)」の試作機が12日、オーストリアのウィーン(Vienna)でオークションにかけられ、カメラとしては過去最高額の216万ユーロ(約2億2300万円)で落札された。



1923年に製作されたドイツの高級カメラ「ライカ(Leica)」の試作機が12日、オーストリアのウィーン(Vienna)でオークションにかけられ、カメラとしては過去最高額の216万ユーロ(約2億2300万円)で落札された。


 ウィーンにあるギャラリー・ヴェストリヒト(Galerie Westlicht)で行われた競売に出品されたのは、0型ライカ(ヌル・ライカ)と呼ばれる機種。1925年にライカが量産体制に入る以前に市場テスト用に25台だけ作られた試作機で、現存が確認されているのは12台しかない。

 この日の競売は30万ユーロ(約3100万円)で開始され、60万〜80万ユーロ(約6100万円〜約8250万円)での落札が予想されていた。しかし実際の落札価格は予想を大きく超えて180万ユーロ(約1億8600万円)に達し、税込みで216万ユーロ(約2億2300万円)となった。落札者は匿名を希望している。

 こうしたカメラの競売価格は、写真術誕生初期の機材に対する関心の高まりを表すバロメーターとなっている。

 0型ライカは2007年に初めて競売に登場し、この時の落札額は33万6000ユーロだったが、昨年行われた競売ではカメラとして当時、過去最高額の132万ユーロで落札された。今回はさらに80万ユーロも高い値がついた
posted by kisenews69 at 21:03| Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

電話盗聴と贈賄関連の容疑で逮捕されたレベッカ・ブルックス容疑者(43)が11日に召還された報道倫理調査委員会で、デービッド・キャメロン英首相と同スキャンダルに関して個人的に連絡をやりとりしたことなどを証言!



盗聴事件で廃刊となった英日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド(News of the World)」元編集長のレベッカ・ブルックス(Rebekah Brooks)容疑者(43)が11日に召還された報道倫理調査委員会で、デービッド・キャメロン(David Cameron)英首相と同スキャンダルに関して個人的に連絡をやりとりしたことや、キャメロン首相から送られた携帯電話のテキスト・メッセージが「LOL」(ロッツ・オブ・ラブ=愛を込めて、の意)で締めくくられていたことなどを証言した。

 ブルックス容疑者は前年7月、ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙による電話盗聴と贈賄関連の容疑で逮捕された。その後の今年3月には、夫のチャーリー・ブルックス(Charlie Brooks)容疑者と共に司法妨害の容疑で再逮捕されている。

 ブルックス容疑者は、米メディア王ルパート・マードック(Rupert Murdoch)氏の右腕として、同氏が率いる米メディア・エンターテイメント大手ニューズ・コーポレーション(News Corp)の英子会社ニューズ・インターナショナル(News International)の最高経営責任者(CEO)として手腕を振るっていた。

 今回、報道倫理やメディアと政治家の関係を調査するためにレベソン判事を委員長として立ち上げられた委員会に対しブルックス容疑者は、ニューズ紙の英国親会社にあたるこのニューズ・インターナショナルCEOを辞任した際にも、キャメロン首相から「間接的な」いたわりのメッセージを受け取ったことを明らかにした。

 またキャメロン首相からの携帯メッセージは、通常「デービッド・キャメロン」を略して「DC」と署名されていたことや、時に「LOL」(ロッツ・オブ・ラブ=愛を込めて、の意)と締めくくられていたこともあり、ブルックス容疑者が「LOL」は「ラフ・アウト・ラウド」(爆笑)を意味すると教えるまでそれは続いたと述べた。

 ブルックス容疑者は他にも首相官邸やジョージ・オズボーン(George Osborne)財務相、テリーザ・メイ(Theresa May)内相、ウィリアム・ヘイグ(William Hague)外相ら閣僚の執務室からも間接的なメッセージを受け取っていたと明かした。

 さらに保守党の現閣僚ばかりか、労働党のトニー・ブレア(Tony Blair)元首相からもCEO辞任の際にはメッセージが届いたが、ゴードン・ブラウン(Gordon Brown)前首相からは連絡がなく、ブルックス容疑者は「喜んでたんじゃないでしょうか」と笑顔を浮かべた。ニューズ紙同様マードック氏傘下の英大衆紙サン(Sun)は、ブラウン氏が労働党党首だった2010年の総選挙前に労働党支持を取り下げ、ブラウン政権はこの選挙で下野することになった。
posted by kisenews69 at 22:47| Comment(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする